ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
フロントページ > 組織で探す > 生涯学習課 > 湧水町の町指定文化財

湧水町の町指定文化財

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年3月1日更新 ページID:0000819

湧水町の町指定文化財

秋葉神社 

(有形文化財・建造物、楠辺)

 秋葉神社の創建時期は不明ですが,慶応元年(1865)沢原の秋葉神社の前に,六字形に町家300余戸を建てて,農工商の窮民を移住させたと言われています。
 この社殿は典型的な宮造りで,高さ3.7m,幅2.0m,横2.5m,床高0.9mの小さなものです。朱塗りの独特の美しい造りをしています。平成8年12月に復元改修されました。

秋葉神社

天神橋 

(有形文化財・建造物、田尾原)

 町内に5脚ぐらいの石造太鼓橋がありましたが,2本だけ残っています。
 栗野から旧伊佐街道の天神川に架けられた橋で,鹿児島の五大石橋を造った岩永三五郎の流れをくむ肥後の石工の作で,江戸末期に造られたものです。

天神橋

勝栗神社・社殿と境内末社 

(有形文化財・建造物、勝栗神社内)

 正八幡宮(現・鹿児島神宮)の分社として,約1,000年ほど前,創建されたと考えられています。神社誌や神社明細帳によると,伴氏(1470年)・義久公(1585年)・義弘公(1590年)・家久公(1623年)など造営・再興された由緒ある社格の高い神社です。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・大山祇神。境内の末社として武内宮・四所之宮・早風宮・門主神社・雨宮社があります。総鎮守として昔も今も大事にされています。

勝栗神社社殿

勝栗神社の仁王像 

(有形文化財・彫刻、勝栗神社内)

 この仁王像は,寺門の両側にあって寺院守護の為に建てられた一対の金剛力士像です。正若宮(勝栗神社)の境内にあった梅中寺の守護として,寛文5年(1665)十月吉日建てられていましたが,明治2年廃仏毀釈で吽の字に口を結んだ像が残され,阿の口を開いた方は,川内川に捨てられたままと言われています。

勝栗神社の仁王像

地蔵菩薩 

(有形文化財・彫刻、恒次・広田)

 地蔵菩薩は,釈迦入滅後弥勒菩薩がこの世に現れるまで,苦に悩む衆生を救済してくれるので一般に深く信仰されていました。また,頭が童形であることから,子どもとの民間信仰が深く,空也上人の「賽の河原地蔵和讃」は特に親しまれています。嘉慶2年(1388)の作の優れた彫刻で,仏教史上の重要文化財です。

地蔵菩薩

菅原神社の石燈ろう 

(有形文化財・彫刻、田尾原・菅原神社内)

 石燈ろうは仏前に献灯するもので中国で発達しました。上から宝珠,笠,火袋,中台,竿基礎の各からなり,火袋の形は八角・六角・四角形に分けられます。本来は1基建てるのが原則ですが,室町後一対建てるようになりました。「応安六癸(1373)月13日大工乗正大檀那妙清」との銘が見られますが,乗正は稲葉崎供養塔群にある暦応2年(1339)銘の乗妙清は,田尾原供養塔群の妙清と同一人物と見られるので関連があると思われます。

菅原神社の石灯ろう

権現山の石燈ろう 

(有形文化財・彫刻、稲葉崎)

 石燈ろうは造立者の刻名がある場合,銘文は説明であって従文と考えられます。石燈ろうは石造美術を重要視されることが多く,この石燈ろうは,田尾原の石燈ろうと共に重要な遺品です。造形面では八角形式の古式で火袋,中台を欠いている点が惜しいものの,宝珠、請花(蓮弁)まで八角形で地方的特色を見事にあらわし,県内有数の貴重な資料です。

権現山の石灯ろう

笹峯観音 

(有形文化財・彫刻、上場・水窪)

 栗野由来記によると市来・笹峯両氏の先祖が天草の乱の時寛永14年(1637)天草から難を逃れ栗野水窪に移住した時,農畜産の守護神として,信仰していた観音像を馬に乗せて来たとのことです。その馬のくつわは4月8日の例祭で陳列されます。

笹峯観音

栗野由来記

 (有形文化財・書跡、栗野中央公民館)

 1793年7月17日から1800年3月5日にかけての矢野氏の写本による「栗野由来記」は,江戸時代の前・中期の極めて貴重な郷土資料です。後世のため,永久に保存・管理・活用すべき重要な「書跡」と,認識を新たにされました。

栗野由来記

鶴丸田ノ神石像

(有形民俗文化財、鶴丸)

 この田ノ神は安政7年(1860)3月に造られたもので,台石と共彫りになっています。顔の表情は少し厳しく笠を被り,野袴をつけ,右手にメシゲ,左手にメシビツを持った農民型の立像です。

鶴丸田ノ神石像

中津川青面金剛碑

(有形民俗文化財、中津川)

 造立は宝暦6年(1756)といわれており石工は馬越源左衛門とされます。旧吉松町唯一の「青面金剛」の庚申塔であり,青面金剛と両面利用の庚申塔には1月14日「メの餅」と「ネコヤナギの小枝」を供えて豊作を祈ります。また,左側の塔を「オイキの神サァ」とよんで,百日咳にかかっている子どもの年齢の数だけの「火吹き竹」を供えて病気の快癒を祈ったといわれています。

中津川青面金剛碑

市原梵字庚申塔

(有形民俗文化財、下川西・市原)

 川西の庚申塔と同じ内容のもので,両面を使用した梵字庚申塔です。建立の年代が享保21年(1736)年4月で,川西の庚申塔より7年遅く,銘文は摩擦が少なく川西のものより読みやすい形で残っています。

市原の庚申塔

三堂の石敢政當

(有形民俗文化財、川添・三堂)

 石敢當は三叉路やT字型の道の突き当たり,袋小路の突き当りなどに,長方形の石に前記の文字を刻んで石垣にはめ込んだり,側に「魔除け」として立てられているものです。これは辻や三叉路は悪鬼が横行するところとされ,T字型の道の突き当たりは特によくないところと言われるためです。この石敢政當は,町内で6基確認されているものの中で最も古いものです。

三堂の石敢政當

 

真中馬場の田の神 

(有形民俗文化財、北方・真中馬場)

 稲の豊作を願い,江戸時代中期頃建てられたと思われます。この田の神は1700年頃の作といわれ「お高祖頭巾」をかぶった女人像で珍しいものです。江戸時代は度々の飢饉の年があり,いかに食料不足であったかをこの田の神を建てたことからうかがい知ることができます。

真中馬場の田の神

水窪の田の神

(有形民俗文化財、上場・水窪)

 水窪の中シ山にあり,寛保4年(1744)3月1日の記銘があります。佃地区にあったものを移したものではないかと思われます。 

水窪の田の神

市原の田ノ神

(有形民俗文化財、川西・市原)

 享保21年(1736)3月12日につくられたもので,町内最古の田ノ神として平成11年7月1日に指定を受けました。

市原の田の神

六地蔵供養塔 

(記念物・史跡、北方・熊峰)

 島津義弘の二男又一郎久保は文禄元年(1592)2月27日父と共に松尾城から朝鮮へ出陣したが翌年9月8日,21才で病死しました。この報を受けた母(義弘夫人)は朝夕,又一郎のうわさをしてなげき悲しみ,朝鮮は松尾城から北の方と聞き,この地に笠石六地蔵を建てわが子の冥福を祈りました。六地蔵とは「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道」をさまよう衆生を救う六体の地蔵をいいます。

六地蔵供養塔

 

島津久四郎・松下源次郎の墓 

(記念物・史跡、心光寺裏)

 久四郎は,島津義弘の四男です(別名・忠清)。義弘の松尾城移城とともに栗野に移住,文禄4年(1595)7月4日に病死しました。享年14歳。法名は蘭柱純香大禅定門。久四郎の没後17日目に,お側小姓の松下源次郎が殉死しました。享年15歳(24歳説もある)。法名は見性道直禅定門。明治初年頃まで,命日(7月4日)には四日踊りと称して磨欲踊りがあり,また,島津家の代拝もあったといわれています。

島津久四郎・松下源次郎の墓

 

松尾城跡

(記念物・史跡、木場・城山地内)

 南九州唯一の山城で特に虎口の石垣と本丸の屋形土台石の存在は貴重な文化財です。古代、中世を通じて薩摩・大隅・日向・球磨の戦略拠点として重要な砦であり,真幸院領主北原氏がこの城に移りました。戦国末期、島津氏が3州を統一,今から約400年位前の天正18年(1590)には島津義弘が飯野城から移り,帖佐に移るまでの約5年間居城しました。なお、その間文禄元年(1592)の朝鮮の役には当城から出陣しています。

松尾城跡

永山遺跡

(記念物・史跡、川西・永山)

 永山遺跡の古墳は地下式板石積石室といって,約1,400年前の古墳で遺体を土葬して周囲を板石で囲んだだけの一般庶民の墓といわれます。大きさは直径1メートル程度から,2メートル余りの大型石室まであり,ほとんどが円型です。昭和48年に14基を発掘しました。

永山遺跡

磨崖仏 

(記念物・史跡、日添・国有林内)

 昔の六観音参りの道路の途中の山中の崖に刻まれた阿弥陀像で,寛文4年(1664)12月11日の刻字があり,かくれ念仏かあるいは山岳仏教の修練の為のものか判然としません。

断崖仏

十三仏 

(記念物・史跡、北方・堂ノ上)

 十三体の仏が刻まれており,昔から疱瘡の治癒の仏として郷村内外から参詣者が多かったといいます。また,ホソ勧進踊りを村境までして,ホソ病を追い出すこともしました。(十三仏は、死者の年期弔いの十三体。)
 前方の花立に次の銘記があります。
享保15年6月吉日(1730)石切 高橋正右エ門 宮下徳左エ門  

十三仏

 

かくれ念仏・念仏洞窟 

(記念物・史跡、幸田・松本)

 島津氏が,浄土真宗を厳しく弾圧したため,僧侶は集合の場所もありませんでした。しかし,信者がひそかに洞窟に集まり,極秘に仏法を信仰しました。この幸田安川氏宅の裏の洞窟も仏様を隠してお祀りしました。この念仏がまは入口が狭く,通路を斜めにつけ,内部の広さも2畳程度で多数集まって法要を開けないので,本尊類を隠して安置したのであろうと推察されます。現在は,土砂に埋まり狭くなり照光寺住職により修理保存されています。

かくれ念仏・念仏洞窟

 

般若寺の供養塔群

(記念物・史跡、般若寺)

 日枝神社の西方300メートル余りの山中にあり,明治2年の廃仏棄釈まで1000年間霊光を放った般若寺の歴代住職の板碑・五輪塔が散在しています。寺跡に自生している茶樹は,般若寺の住職が宇治から持ち帰り,本県における製茶の起源の一つとされています。

般若寺の供養塔群

 

 

 

 

 

松尾城城窯跡から出土したトチン 

(有形文化財・考古資料、栗野中央公民館)

 文禄の役に出陣した島津義弘は、朝鮮から数名の陶工を連れてきて城山に登り窯を築かせ陶器を焼かせたとされ、その登り窯の跡から「トチン」と呼ばれる焼き物用の古い道具が拾得され保管されています。この「トチン」は栗野が薩摩焼の発祥の地である説を示す貴重な文化財として町指定文化財に指定されました。

トチン

四部落太鼓おどり

(無形民俗文化財、川西)

 四部落太鼓踊りは島津義弘公の頃からの踊りといわれ、町内の陣前・堀之原・市原・松山の四つの集落に伝承されています。旧暦の7月27日、南方神社の正祭の日に踊られていましたが、現在では毎年8月27日直近の日曜日に奉納されています。
 踊りの特徴としては、(1)激しく45分間連続して踊る(2)真上から真下に打つ(3)隊列変化が完成されている などが挙げられます。

四部落太鼓踊り

箱崎八幡神社の神舞

(無形民俗文化財、川西)

 4月29日の伊勢講の日に箱崎八幡神社境内,または吉松中央公民館までみこしがくだり神座が設けられ,神の降下を願って神舞が行われます。この舞は古い楽と昔のままの舞の所作を伝承している吉松神舞として知られ,特に舞いの庭に,笹屋根で葺かれた巫女屋が設定される伝承は,南九州では吉松地域にしかみられないという特徴をもっています。

箱崎八幡神舞

 

オバッチョ踊り 

(無形民俗文化財、木場)

 オバッチョ踊りは,島津義弘公が朝鮮からの凱旋のとき,百姓たちが,ありあわせの道具を持ち寄って,お祝いの踊りをした事が始まりといわれています。また,一説には,朝鮮に出陣のとき,松尾城から風呂之岡まで,オバッチョ踊りをして見送ったともいいます。町内外で行われる郷土芸能発表会などの誘いに応じて意欲的に発表しています。

オバッチョ踊り

 

 

 

 

 

Googleカレンダーへ登録の画像 Googleカレンダーへ登録<外部リンク><外部リンク>
Yahoo!カレンダーへ登録の画像 Yahoo!カレンダーへ登録<外部リンク><外部リンク>